小卒で50億円を稼ぎ、80歳で死んだ大叔父から学んだ、裸一貫から大富豪に成り上がる方法
どうやったらお金持ちになれるんだろう?
お金持ちの人の話を聞いたことがないから成り上がる過程がわからない。
このままサラリーマンじゃダメだ、でも。。。
むなしくなりますよね。そのむなしい気持ち、よてもよく分かります。
私もそうですから。
つい半年ほど前、私の大叔父にあたる人物がこの世を去りました。
大叔父は会社を5つ経営しており、資産は50億円を生涯で稼ぎました。
現金だけで、です。土地、不動産をいれたらもっとです。
関西でお城のような大豪邸をみたことがある人は知っているかもしれませんね。
今回のお話は、そんな大叔父の波乱万丈な生涯から、お金持ちになるヒントを発信できればなと思います。
1.そのはじまり
関西で8人兄弟で育った大叔父は赤貧の家に生まれました。
なにせ金がない。
修学旅行のお金を親にも出してもらえなかったのです。
そのときからお金に対する執着は強くなり、学校をサボってビジネスをやっていました。
破竹というタケノコの元になる高く売れる植物が群生しているポイントを見つけては、ごっそりと収穫して街で売りさばきました。
ドジョウがいるという池にいっては石を放り込み気絶させて、捕まえては売りに行く。
商魂たくましく、お金がなく、進学するのではなく、そのまま商売を始めました。
2.最初のビジネスは養豚場
ビジネスとしてはじめたのは養豚場でした。
豚は育てやすく、売値は安いけれど、確実に儲かるということで借金をして農場を抱えてスタート。
そこそこの売り上げにはなっていましたが、ライバルの出現とともに撤退。
次に始めたビジネスは、電設工事の会社を立ち上げました。
電設工事の会社の仕事は順調で、ドンドン伸びていきました。
3.しかし、悲劇は訪れる。
あるとき、電設工事に入った工場で主電源を切り忘れるというトラブルがあり、大叔父は
作業中に全身を焼かれてしまい、体中の皮膚が焼けて半分植物人間状態になってしまいます。
身内の身体の皮をつかって皮膚移植はなんとかなりましたが、何せ40年前のことなので、皮を移植しても完全ではありません。
身体中から膿があふれ出てしまう状態。
ほぼ100%助からないだろう、という状態から九死に一生を得ましたが仕事はパア。
うちのおばあちゃんのうちで療養をします。
4.しばらくは自暴自棄な時間を過ごす。
なかばやけくそになり、お金も仕事もない、身体も皮膚移植でボロボロ。左の半身はほぼ動かない。
起業家としてはもう終わったかに見えましたが、ここで、思わぬ運を彼はつかみます。
5.たまたま入った喫茶店で、上場企業の塗装工場を任される。
たまたまフラフラしていた大叔父が入った喫茶店で、日本で一番最初にフォークリフトを作った上場企業の塗装工場で働いている人を探しているという銀行の重役と、当時の社長さんと話すことになりました。
あまりにもボロボロになってしまった大叔父の姿を見て、「うちに塗装工を連れてきてほしい」という話になり、大叔父は当時、京都の西陣織の職人を勤めていた親戚を集めて会社を結成します。
6.単なる下請けでは終わらなかった。
当時、その上場企業の株価はパナソニックよりも高く、勢いのある会社でした。
しかし、突然景気が悪くなり、下請けへの支払いができなくなりました。
塗装工場は二つ下請けの会社があったのですが、そのうちの1つがなんと撤退します。
叔父の会社だけが下請け会社として残りました。
7.下請けから協力会社へ昇格
赤字を覚悟で借金漬けになりながらも大叔父は仕事を続行。
後に親会社が大幅な黒字化をした段階でその貢献を認められ敷地内を譲渡されて、協力会社へ昇格します。
快進撃が始まります。
8.独自の塗装技術で、重機と自動車の塗装に着手。
独自の塗装で会社の車両の塗装を一手に引き受けます。
大企業の協力会社なので入ってくるお金は大きくなり、従業員数も拡大。
突然儲かり始めます。
9.滋賀県の高額納税者番付1位に
滋賀県の高額納税者番付1位を何回もとります。
要するにダイハツ工業の社長とか、ヤンマーの社長よりも納税しているという時期が何度もあったということですね。
10.結論
商売は当たるまでどんな小さなことでもやってみることが大切だということですね。
以上
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